みなさん、こんにちは。
私のチョット長い、つぶやきです。
今回のテーマは、
廃仏毀釈と豊川稲荷玉林寺様
私のプランでイヤシロチの施工をしたお寺です。
お話しです。
明治四年の夏、廃藩置県が断行された。旧来の幕藩体制が
名実ともに崩れ、中央政府の土台が確立したのです。
その時、妙厳寺もその渦の中に巻き込まれました。
その当時は、朱塗りの鳥居が立ち並び、末社になると
祭りの日には豊川稲荷大明神の幟(のぼり)も
立てられていました。
政府は、神仏混交だと決めつけ、抑圧にかかりました。
神仏分離政策が「豊川いなり」に及んだ明治四年の前半、
豊川閣妙厳寺はまだ大岡家西大平藩の行政区画に
属していました。
豊川稲荷(神)と妙厳寺(仏)を切り離そうとする政府の
圧力は粘り強く、西大平藩三河豊川村妙厳寺境内
豊川明神区別とか豊川ダキ二天由来取調書といった文書が、
政府、西大平藩、妙厳寺のあいだで行ったり
来たりしていました。
妙厳寺は度重なる吟味や取り調べにその つど丁寧に
応答しているが、あいだに立つ西大平藩のほうはさすがに
ウンザりしたものとみえ、前回と同様という紋切り型の
奥書きで済ませるようになって来ました。
お話しを戻します。
その時の方丈(住職)、禅海霊龍和尚と共に黙童禅師は、
廃仏毀釈に反対し、意思を貫き通しました。
また、この快挙の陰に、山口藩を追われて妙厳寺へ政治亡命
していた簣雲泰成様(大寧寺四十五世簣雲泰成・
きうんたいじょ)玉林寺、住職の秘められた功績が
ありました。
簣雲泰成様の明治新政府の要人には、
三条実美卿(明治政府の最高首脳人物の一人)を推戴する
長州藩の出身者が沢山いました。
三条実美は、勤皇派の象徴としてゆるぎない権威を
新政府の中で持っていたし、三条の方も長州人に対する
恩義を忘れてはいませんでした。
これが「豊 川いなり」の為に尽力する簣雲泰成の活動の
背景となりました。
かれは、妙厳寺の若き後継者福山黙堂(ふくやまもくどう
、後に永平寺の六十五代貫首となる)を伴って再三政府筋へ
働きかけを行いました。
また、政府の取り調べに対し直接出頭して妙厳寺の為に
論陣を張ったとする記録もあります。
黙堂禅師の後日の回顧談によれば、東京からの帰路、
浜名湖の船上で暴漢に襲撃され、簣雲泰成とふたり
水中に逃れて九死に一生を得たこともあったという。
いずれにせよ、曲折はあったが結局中央政府が、
豊川いなり」の取り調べは妙厳寺の申し立て通りに
よろしく取り計らえと出先機関へ朱書き通達をする
いきさつになった背後には、簣雲泰成の政治工作が
大きくあずかって力があったことは否めない事実です。
簣雲泰成、様(大寧寺四十五世簣雲泰成、様)は、
妙厳寺の末寺である豊川市内の玉林寺で、明治三十四年に
没しています。
大寧寺を追われて以来三十年にわたり、福山黙堂の指揮する
豊川いなりの一大躍進時代を陰から支えた方です。
黙堂和尚が東京の赤坂へ進出政策をとったときにも
簣雲泰成の力がかんでいました。
今の東京、赤坂にある、豊川稲荷東京別院も
簣雲泰成、様(大寧寺四十五世簣雲泰成、様)の一つの
功績でもあります。
お話しを戻します。
また、明治二十七年、現在の豊川閣大本殿建築計画が
発願されるや、意外にも宮内省が応援に動いたという
事実にも、簣雲泰成が持つ中央政府との太いパイプが
感じられます。
風雲の人簣雲泰成は、二十世紀が始まると共に、
その波瀾万丈の生涯を玉林寺で閉じました。
古老の語り伝えによると、晩年の泰成和尚は「豊川いなり」
から破格の貴人として遇され、痺身で背が高く、
白いアゴヒゲを蓄え、気品のある物静かな人物でした。
豊川稲荷、末寺の玉林寺様のお話しでした。
イヤシロチの施工後、お寺に取って、ポジティブな
不思議なことが色々とありました。
上記写真は玉林寺様のイヤシロチの施工の工程です。
ありがとうございます。感謝