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17/05/09 03:57 / 禅語、人が幸せに生きるために必要な基礎

金嶽様のウォールからです。禅語に『看脚下(かんきゃっか) 』という言葉があります。
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みなさん、おはようございます。

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今日は私のフェイスブックのお友達、金嶽様からの

コピペをさせて頂きました。

人は誰でも、自分の進む道が解らなくなる時があります。

そのような時、自分の向かっている方向を観るには、

自分の足元を見る必要があります。

金嶽様のウォールからです。

禅語に『看脚下(かんきゃっか) 』という言葉があります。

その意味は「足もとをよく見よ」です。

この禅語の由来は中国 宋の時代、ある禅僧と弟子達が

夜道を歩いていた時のことです。

強い突風で、提灯の火が消えてしまいました。

すると禅僧は、慌てる弟子達に尋ねます。

「明かりが消えて 一寸先は闇の状態だ。君達はこの

状況の中、どう行くか?」と。

この暗闇は 人生でもあり得ることです。

灯火や杖のような「人生に大切な光や頼むもの」を

失った時、どうしますか?

これに対して、仏果圜悟(ぶつかえんご)という弟子は

『看脚下』と答えました。

「提灯の明かりが消えたら、足もとによく注意するのが

何より大切です」と。

突然 予期せぬ窮地に陥った時も、慌てずに自分の足もとに

目を向け、一歩一歩を確かめて進めば 道が開けてくるという

意味です。

立ちはだかる問題を解決する際、自分自身の

「脚下」にこそ答えがあるのでしょう。

暗闇も禅も脚下、、、足下とは自分の拠って立つ場所、

つまり、拠り所となる「自分の心」です。

足もとを見るということは、わが身わが心を振り返ること。

自分が今 どういう立場や状況にいるのか、よく見極めて

事に当たれ、ということです。

因みに『看脚下』は よく禅寺の玄関に貼ってありまして

「履き物をそろえて脱ぐ」ということに応用されています。

まずは 履き物をそろえて脱ぎましょう。

きちっとすると、心が自然に落ち着きます。

どんなに忙しい時でも、履物をそろえて脱ぐくらいの

心のゆとりが欲しいですね。

更にもう一つ、他の人の履き物が乱れていたら、

そっと揃えてあげましょう。

きちんとすると、心もスッキリ整ってくるから不思議です。

これをだんだん続けていきますと、家族みんなの心も

揃ってくるような気がします。

先日、檀家Aさんの奥様が 急にお亡くなりになりました。

次の日、Aさんが奥様の葬式のことで お寺へ相談に

いらした時のことです。

Aさんは「最近は なかなか商売がうまくいかないうえに、

女房には先立たれ、息子家族は一緒に住んでくれない。

(占い師に) 見てもらったら、ご先祖さまの

たたりではないかと。

それで墓を直そうかと思いまして、、、」

そこの家は ほとんどお墓参りをせず、お墓を

放ったらかしにしていました。

また、お寺の行事にも 全く出席されていませんでした。

これには うちの住職も呆れて「自分の足もとを見ろ!」と

強い口調で言っていました。

足もとが見えていない人は、自分自身が見えていません。

お墓を放ったらかしにしていて、やることもやらず、

お花一つ供えたこともない、、、、

ご先祖さまを粗末に扱うような人がどうして、

生身の人間とうまくやっていくことが出来るでしょうか。

そんな心がけでは商売したって、何をしたって、

うまくいくはずがありません。

先祖のたたりのせいにする前に「看脚下」己を振り返れ!

です。

昔から、玄関を見ればその家庭の様子がよくわかると

言われています。

履き物がきれいにそろっている家は、躾が行き届いていて

きちんとしているなぁと思います。

これはお墓も一緒です。

何年もお墓の見回りをしていますと、それぞれの家庭の

様子がよく見えてくるようです。

きれいにされている家はやはり、繁栄されているように

思います。

「足もとを見よ。道は近きにあり、汝自身に向かって

求めよ」佐藤俊明 ちょっといい話より

どこか遠いところ、自分の外に真理を求めるのではなく、

自分の足もとにこそ真理はあります。

そして、その真理の上に私の実存がある。

自分の足場を大切にしたいと思います。

以上でございます。

因果応報も、自分で引き寄せる意味のある出来事です。

みなさん、身の周りの、徳を積みましょうね。

ありがとうございます。感謝

[更新日付:2017/05/09 03:57:24]