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当店の門松は江戸時代より伝統文化を継承しているかたちです。 門松は二対で一門(ひとかど)です。 門松はご要望により、おまじない・新月炭なども入れて創ります。大きさは高さ4尺(1.2メートル)から7尺(2.1メートル)までです。ご注文はお早めに御願い致しますね。  ありがとうございます。 感謝  09/12/30 05:02 / 門松

浜松門松の言われ
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みなさん、おはようございます。

門松も、今日で最終日です。

と言っても、本来は冬至の日に建てるのが本来だと

私は思っています。

浜松と言う所は、徳川家康公の出世城と言われています。

それは、武田信玄公と徳川家康公は三方ヶ原合戦で

戦い、徳川家康公が破れ逃げ惑って色々と策を考え

最終的には徳川家康公が戦いに勝ち、徳川300年を

築き、保ち、現在に至ります。

徳川様に取って三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の

激闘であったと伝えられています。

(生涯で唯一武田信玄に敗れた徳川家康様は、

その三方ヶ原合戦を非常に恐怖に思い、

また自分の合戦に対する考えを深め、武田信玄に対する

尊敬と憎しみの混じった複雑な想いを抱く結果

浜松門松が変わった理由だと思います。

家康公にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を

築くための試練の時代だったと言えます。

このように家康公様と同じく浜松は産業にしても、

オートバイ、楽器、自動車にしても発展性のある

街であり場所です。

この歴史を創って来た徳川様が門松に付いて

こだわりがありました。

それは、徳川様にある年の大晦日に武田家から

松平家(後の徳川家)へ次の一句が送られました。

松枯れて 竹類なき 明日かな

これを見て松平から武田に返句が送られます

松枯れで 武田首なき 明日かな

松平家では、こう詠みながら門松の竹の上部を斜めに

削ぎ落としたとのことです。

この時を境に、松平家の門松の竹の頭は

「斜め切り」となり、徳川家康様が江戸開幕後、

関東ではこの型の門松が定着したとのことです。

また、浜松の門松に至っては、三方ヶ原合戦の後、門松の

先端部の切り口は首を飛ばす(ソギ)ことを嫌いました。

これと、同じく、浜松の庭の出入り口にある枝折戸(木戸)の

矢来は処刑上にある矢来とは別に区別し今ある浜松独特の

枝折戸になりました。このことに付いては、また、詳しく

日記に書きます。(説明の仕方が難しいので、写真を載せ

改めて書きます。)

みなさん、浜松門松は徳川家康様との意味のある偶然の一致です。

それは私の御先祖様から代々と告がれる伝統文化の継承

とも言えます。

浜松門松の創り方

浜松の門松  説明 

1・竹の太さにより門松の高さと鉢の大きさが変わります。

2・松の長さも門松の大きさにより変わります。

3・下の部分のはかまに付いても大きさにより変わります。

4・当店の門松は松、竹、梅、以外は使用しません、

5・浜松の門松の特長としては徳川時代より門松の先端は

鋭角に首を落とすように削らず蓮きりを頭の部分を残します。

(浜松門松は斜め切り(削ぎ/ソギ)はしません。)

その理由はは首を落とすと言う言われでハスの部分は

人の顔(福の顔)のように残すと言われています。

門松は普通は二対で一門です。

写真は浜松五社神社の当店が建てた門松です。

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今朝は門松に付いて書きました。

みなさん、全て意味のある出来事ですね。

みなさん、人生ワクワクと楽しく生きましょう。

明るい未来を創造し楽しく生きましょうね。

今日もワクワクと楽しく生きましょう。

私はいつでもワクワクと楽しく生きています。

ブログをご覧頂いている皆様のご健康と御多幸を心より祈りつつ。

ありがとうございます。 感謝

追伸、

御問い合わせがある人はお気軽に御問い合わせ下さいね。

住所 浜松市中区城北2−18−8

古橋竹材店・代表 古橋一成

メール moon@furuhashi-takezai.jp

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お店 053−471−5090

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ありがとうございます。 感謝

[更新日付:2009/12/30 05:02:54]